WORLD EXTREME WAVE への挑戦 最終章
2人きりのJAWS
じわじわと様子を伺いながら波のブレイクポイントへ移動していく2人。一歩間違えれば死に至るリスクがある。『このコンディションの中でどうすればいいのか』、2人はそれについて深く話し合い、海へ入って行った。水中にサポーターのいない今、テイクオフには慎重な波選びが必要不可欠だ。1本、2本ブレイクしそうなうねりにボードを合わせて波の感じを視る。再び見ている私たちも緊張感に包まれた。
太く重たい波は、なかなか割れ始めなかったが、割れ始めるといきなり掘れ上がる波もある。更に、波の面が左によれ上がっているのがこちらからも見て取れた。2人はそれぞれ自分のタイミングに合う波が来る機会を待った。
待望の時が訪れた。ミドルサイズのうねりに真平がパドリングを合わせテイクオフ!マッシーな重なるうねりをつなぎトップを軽くクルーズしてプルアウト。じっくり波を攻略していく真平らしいセイフティーな1本目のテイクオフだった。待ちに待った初めてのJAWS、真平が次の世界へのドアを開ける瞬間を、私たちは見た。
再びピークへ向かい、篤と波のセットが来るのを待った。
風の影響もあるのか、ノーズが跳ね上げられて走り出すタイミングがつかめないでいた篤、今回が2度目の挑戦ではあったが、集中力を切らせることのできないコンディションには変わりはない。彼も慎重に、まずは手前の波をキャッチしてテイクオフの感触を試し、プルアウト。シフトしてくる波の分厚いスープ横ぎりぎりを通り再び沖へパドルアウトした。
濃い色をした雲が近づいて、雨がまた降り出してきた。
人の大きさが豆粒くらいにしか見えない崖の上からでも掘れる波の危険度を感じるくらいだから、海の中では、かなりの高さから鋭角にフェイスへ滑り出す必要があるだろう。2人はフェイスへのパドリングを何度も繰り返しながら、多くの波を見送った。2人にとって本日唯一のバディであるお互いの様子を常に確認し合って、言葉を交わしてはそれぞれテイクオフしたいポジションへ移動した。
2本目の波をキャッチした篤は、重いガンがばたつくのを抑えながらレフト方向へ進むが途中でスープに飛ばされワイプアウト。スープに消えた篤の姿を確認できるまで、緊張感が一気に高まった。(実際には10秒もなかったと思う)
そして、真平2本目の波。数々のビッグウエイブを乗りこなしてきた真平だけに、落ち着いた体勢でトップからスープにそって美しいS字のダウンザラインを描いてきた。初めて経験するポイントでもこの安定感を出す真平のライディングを見て、彼がサインを書く時に加える“水と共に”という言葉がふと頭に浮かんだ。
フリーフォール気味のテイクオフからバタつくスロープへ、両腕を振ってバランスを取りながらのライド。篤は“攻め”のライディングを魅せた。ハラハラさせられる彼のライディングもまた経験値と気迫を感じる迫力のあるものだった。
「もう上がってきてもいいんじゃないか!?」緊張感に耐えられなくなってきた私たちの心配をよそに、2人はその後も波に乗り続けた。
最後の難関となる“上がり際の巨大ショアブレイク”生きて帰ってきてほしい、という願いに答え、彼らは岸にたどり着いてくれた。上がり際にクラッシュしたボードを抱えながら、アドレナリンをたっぷり放出した最高の笑顔で帰ってきた二人は、海に入る前よりパワフルな存在感があった。
もう一人の観覧者
「サーファーで初めて『JAWSへ行きたい』と連絡をくれたのは、洋之介君だったのよね」。今回のMAUIをサポートしてくれた友子さんが、ピアヒへ向かう前に思いがけない話をしてくれていた。それは、2006年に他界した伝説のビッグウエイバー、佐久間洋之介のことだった。当時、勢いに乗っていた若手サーファーの一人だった彼の死は、多くのサーファーを驚かせる大きなニュースとなり、沢山の仲間とファンが泣いた。
真平と同じように波を求めて海を渡り歩いていた洋之介は、あの年、次なるステージとして決めていた波、JAWSを目にすることなく逝ってしまった。
その後、真平と正夫は、“子供たちに海をもっと知ってほしい!海を教えたい!”と、生前洋之介が訴えていた想いを受け継いで『海の学校プロジェクト』を開校し、仲間を集め日本のあちこちの海で今も子供達に海を伝え続けていた。
真平にとって、どちらが凄いかを競い合うライバルとして、また一緒に大波に向かう仲間として欠かせない存在だった洋之介。正夫にとって、共に遊ぶやんちゃな弟として、互いの持つ才能を認め合い、苦楽を共にする同志だった洋之介(正夫は洋之介と一緒にMAUIを訪れる予定だった)。
洋之介の地元であった葉山で、彼が一番恋していた波「YonoPeak」を舞台にビッグウエイブコンテスト「YONOSUKE MEMORIAL CUP」が、彼の弟、泰介の手によってスタートされたこの年に、洋之介とは全く別のルートから友子さんとつながりMAUIへ来ていた2人にとって、友子さんとの出会いが不思議な力に導かれてきたものだったと感じずにはいられなかった。
洋之介が来たかった次の扉。時を超えて、二人の仲間と共にJAWSに彼の想いがたどり着いた。
当時、まだトゥーインで乗る人しかいなかったJAWSの波に、真平がパドリングでテイクオフしているのをきっと悔しがっていることだろう。
打ちのめされた帰り道
無事に帰ってきてくれて本当に良かった。重たいサーフボードを引きずるように持ちながら息を切らして谷を登ってきた真平と篤は、登り切ったところでボードを下ろし、固い握手を交わした。お互いに、今日のピアヒに入るというサバイブを共にした唯一のパートナーで、多分というか絶対に、どちらか一人しかこの場所にいなかったら海に入るという選択をしていなかっただろう。
良い波ではなかったにせよ、この有名なビッグウエイブポイントのピアヒを貸し切りで入れることはほとんどありえないから、他の人の動きを気にせずポイントの中を行き来しながらじっくりと自身のレベルに合った波やテイクオフの位置を探すことができたことと、リスキーなコンディションを乗り切った経験は、次の機会に向けての大きな収穫になったことは間違いない。真平と篤、それを見ていた私たちにとって、沢山の貴重な体験をすることのできた日だった。
時計はすでに3時を回っていた。興奮冷めやらず、まだここで余韻に浸りたいところではあったが、その後も降ったり止んだりを繰り返していた雨に、帰り道が気になった。きっと来たときよりもひどい状況になっているだろう、海上がりに浴びる水の用意もなかった2人は、ホキパのシャワーで塩を落とすことにして、ウエット姿のまま早々にピアヒを出ることにした。
登りになっている帰り道、走り出して5分もしないうちに案の定、車はぬかるみの餌食になった。ドロドロになった道にセダンのレンタカーは全く太刀打ちできず、押しては戻り、戻っては押し、を何度繰り返したかわからない。挙句の果ては、通る車に邪魔だからと言われ、草むらに追い込まれる始末。10時過ぎにマックを出てから何も食べていなかったし、スペシャルな体験での緊張感が抜けて、みんな腹ペコでクタクタな上にずぶ濡れで泥だらけだ。“雨の日はピアヒの道で大変な目に合っている人が沢山いる”友子さんが言っていたのはこのことか、うんざりしながらしばらく立ち往生。今日はここで泊ることになるのか、脱出不可能なのではないかと諦めそうにもなった。
1時間くらい泥との格闘続けていたところに、大型のピックアップトラックが偶然通りかかった。救いの手にみえた彼らを捕まえ、事情を話し交渉する(お金を払うので引っ張ってもらえないかと頼んだ)と、手伝ってもらえることになり、なんとか暗くなる前に脱出させてもらうことができた。(因みに私たちが乗っていたfordの四駆はなんとか自力で通過できた)
導く人の存在
雨の日にピアヒへ向かうということは本当にハイリスクだ。ピアヒで波が立っているという情報を聞いて、入りたい、見学したいと思っていても、その日や前日が雨だったならば行かないことをおススメする。もし波に乗らずに帰ってきていたとしても、そのことを伝えられるだけで、今回行ったことは無意味ではなかったと思う。
ホキパのシャワーで塩と泥を落とし、着替えをしてパイヤの町まで戻って、コンビニに寄った。充電器を買い、切れてしまっていたケータイを充電して急いで友子さんに連絡を入れ、空港の近くで待ち合わせた。
「ピアヒに入ってみます」と言ってから5時間以上連絡できていなかったので、とても心配をかけてしまった。しかし、彼女はそんなことお構いなしで、今日のピアヒをチャージしてきた2人の話しを興奮しながら熱心に聞き、貴重な経験と、怪我なく無事に帰還したことをとても喜んでくれた。友子さんの助けがなければ、この日ピアヒの波を乗ることも、それを収めることも不可能だっただろう。MAUIに詳しいウォーターガールの知識と情報そして女性らしい細やかな配慮にこの時改めて感謝を伝えた。
まだまだストークしていてもっと話したい様子の真平と篤だったが、オアフへ帰る飛行機の時間が迫っていた。真平と篤は、やっとテーブルに届いた食事を急いで口に運びながら、ぎりぎりまでJAWSのことを話し、別れを惜しむ間もなく慌ただしくMAUIを後にした。
与えられた経験
まだ数人の日本人しか経験していないJAWSの波。
世界のビッグウエイブシーンが驚くほど進化を進め、更なる未知のサイズを求めてどんどん新たなポイントを開いている中で、日本人サーファーは大きく差をつけられているようだ。それは、日本のビッグウエイバーに対する評価が低いということが大きく影響しているのではないかと思う。“大きい波”に乗ることは、乗れなかった時に遭遇する命の危険と隣り合わせになっているため、体力、気力、知識、判断力、道具といった内容がそろっていなければ自信を持って波を追いかけることはできない。しかし、思い切って緊張感と共にテイクオフをした波をメイクできた時の気持ち良さは格別で、乗ったサーファー本人にとって何より最高な海からの贈り物だ。
保守的な考えを持つ人の多い日本で、“未知への挑戦”や“前人未到の快挙”というものは、特別な人がする風変りなことであり、自分には関係のないこととしてとらえられがちだが、実際には“やりたい内容”が特別なだけで、それに向けて生活を積み重ねていくという基本のところにどんな人も大きな差はない。差があるのは“やる気”の部分で、夢を本気で叶えたいという純粋さがあれば、その人たちがどんなことをしてやり遂げたのかに自分をリンクさせて、自然と興味が沸いてくる。
真平と篤が乗り越えてきた今回の挑戦は、自分たちのエクストリームサーフの新たな門を叩くと同時に、日本のビッグウエイブシーンを開拓する大きな一歩になったと思う。リアルJAWSと言えるサイズではなかったが、波にたどり着くまでのサバイバルコースを知ったこと、必要な装備がわかったことで、次のタイミングまで準備を整えることや、新たな挑戦者を導く知識を持つことができた。もちろん、たった1回や2回でJAWSの全てを知った訳ではなく、まだまだ知らないことも山ほどある。
2度目のJAWSチャレンジだった藤村篤は『JAWSに行くには四駆の車が絶対に必要だと思った。(前回の帰りも、タイヤがパンクしたまま舗装の道まで出たらしい)まだまだスタート地点だし、自分のペースを崩さずにこれからもやっていきたい。それがデカい波が好きな人や若いサーファーのきっかけに自分がなれたらと思う』と、謙虚で慎重な感想をくれた。
そして、長年意識してきたJAWSを始めて滑った堀口真平。
『JAWSは海がデカい!波もデカい!今回持って行った10”6の板はワイメアで何度か試し乗りしていて、大きすぎると思っていたけれど、JAWSでは丁度いいサイズに思えた。それだけ波のスケールが違うということで、今回素晴らしい経験ができて本当に良かった。新たなスポットについて研究を重ね、上手に乗れるようになりたい。これまでよりスケールの大きい自然の中に入っていく訳ですから、自然と自分の命のやり取りになってくるので、これまで以上に石橋を叩いて渡っていきたい。』と、やはり謙虚に、そして前向きにキラキラした表情をみせてくれた。次のステージを意識しながらも躊躇していたJAWSの波に乗ることができたことは、真平にとってさまざまな自身の壁を乗り越えた瞬間でもあっただろう。
新しい扉を開き、進みだした真平と篤。次なる実現へ向けて動く今後の2人から目が離せなくなりそうだ。そして、彼らの後を追いかけてくるエクストリームサーファーがどんどん現れることを期待したい。
完
Rider/堀口真平 藤村篤 Text/角田恵 Photo/TeamM23 Ryota