Update:201911.25MonCategory : BLUERマガジン

カリフォルニアからみた日本《第1話》

今日は「BLUER」がなぜ始まったのか、をふくめて書いてみようと思う。

そして今年2019年。BLUER代表の私にとって、素晴らしい1年だったことととてもリンクしているから、それについても。その理由は、カリフォルニアから日本をしっかり見た初めての年になったからだ。

もとをただせば「日本の海はもっと観光活用なり、サーフィン活性化なりができないのかな、、、」という理想論の中で、当時、現・「月刊サーフィンライフ誌」の編集長の小山内氏に声をかけて、新しいプロジェクトをやるから手伝ってよ、と依頼して立ち上げたのが「BLUER」プロジェクトだった。それが2013年のことだ。

余談だけれど小山内氏は月刊サーフィンライフで私が編集者をしていた時代に、同じ釜の飯を食べたまさに同僚であって、今も唯一無二の存在とでもいうかな、たくさんの編集者を尊敬している中でも、群を抜いて日本随一、サーフィン編集者という意味では能力が高い人だと認識していて(それはわたしの意見として、視野が極めて広く近視眼的でもない部分において)、今でも同期として信頼する友。

当時、東日本大震災が2011年に起こり日本の海岸線が悩ましい状況になっていき、私が当時の会社の支援で立ち上げていた「サーファーズアワード」や「EARTH magazine」といった別のプロジェクトも、私の中では一切合財が頭の中から吹き飛んでいった出来事となった。

サーフィンがもっと市民権を得るには? とずっと考えていたときだったから、なおさら海岸線が「危険な場所」となったことで、当時は波情報を推進していたことを、せめてもの「責務」とする以外は、そのような本質論は、すべての思考が止まったと記憶している。

でも震災が復興してきたときに、やはり「海」が人間にとっての唯一無二の学び・癒しの存在であることは間違いがなく、おそらく、そのすばらしさに日本国民の多くはいまだ、気がづいていないのではないか、と小山内氏とともに「BLUER」を生み出した。

つまり「BLUER」の根本テーマは、常に「日本の海」であって、実は海外に当時からなかった。

だがバックグラウンドとして、私も小山内氏も、特に「月刊サーフィンライフ誌」の取材で日本全国の海岸、海外にも取材で飛んでいたから、そこそこ海外から日本は見ていた。だからそういう疑問を持ったとも思う。

その中でも、やはりやはりアメリカ、という国が、いかにサーフィンビジネスにおいて、カルチャーにおいても、この国がすべてをけん引してきた歴史であることは史実として間違いがなく、それもあって、アメリカは私にとっては要所でしかなく、だから「月刊サーフィンライフ誌」を早めに切り上げてデジタルに進み、その際に、アメリカの雑誌社を当時凌駕していたWEBメディアである「SURFLINE」に声をかけ波情報において業務提携し、(しかし私の魂胆は、前述のような目的のプロセスでやりたいことが山のようにあって)いろいろとアメリカと推進することはベターな選択だろうと、とそんなことなどをしていた。

当初、BLUERの当時のキャッチコピーは「Meke your life Exciting」。サーフィンに限定せず、ビーチを起点とした自然の遊びの発信。特に一般人への発信。

その実は、私にとっては、前述のような「日本の海岸をなんとかもっと活用できないのかな、、」ということへのあくなき探求だった。

これがBLUERの始まりであって、そこから6年たった今年、USAに旅でも取材でもなく、根をはり現地の人になって西海岸は、果たして何が日本のコーストラインと違うのか、もちろん地形などの問題でもなく、「人間性」「海とのココロの距離感」を含め、日本の海岸線を見る、ということをした1年だった。

そのためBLUERは、必然的にカリフォルニアの情報があふれていたと思う。

あまり真意など皆様にはお伝えてできていないので、BLUERは一見すると、”サーフトランクス”や”ジュエリー”や”MINIFIN”を売っている人達であって、ヤシの木のカリフォルニアテイストが好きな人達、と思われても仕方がない。

でも、そこにいたからその風景が切り取られたにすぎず、その本心・真意は

「日本の海岸線(コースストライン)の活用、および活性化」

のために何をすべきか、そのために、アメリカが必然的に発信拠点にもなっていった。

私が取り組んだのは、「日本のサーフトランクス」を通じてやアメリカ国民やその他の英語圏の国に「JAPAN」を知ってもらえれば「日本には素晴らしい海があるんですよ」ということを知ってもらうことが、もしや共時にコミュニケーションとして解決的な情報を得ることができるのではないか、と考え、せっかく販売している”サーフトランクス”を日本だけでなく海外にも売ったらいいじゃない、というとてもシンプルな発想で、ビジネスとしての原資(金銭リソース)を獲得しながら、交流するためのファーストイヤーの1年ということになった。

まだまだ根を下ろしたばかりで、その反響やデビューは来年に持ち越されてしまったが、オリンピックでのサーフィンがアピールされることにはなる2020年。

五十嵐カノアの活躍が相当なアピールとなることとなるだろうが、おそらく短期でのフェスティバルともいえるから、まずは、長期的に国土としての海岸線の活用をゴールとし、個人的には「日本の海」を目的として、海外でも向き合うことが必要と考えていて今に至る。

ということで、もうすでに長くなったから、今日はこのあたりで次回に続こうと思う。

実際に西海岸から日本がどう見えたのか、について。

WORDS by Naoko BLUER Tanaka