波から教わる郷土の誇り
生まれ育った街に愛着はあるか。宮崎の南方、日南市で出会った光景はそう問いかけてきた。
市立鵜戸小中学校では7年前からサーフィンを授業に取り入れている。発端は山間部から赴任してきた柿木真也校長(当時)の決断。校舎から歩いていけるコバルトブルーの海を見て感動したことをきっかけとする。
南北を岬に挟まれた入り江は総じて手つかずで美しく、「コバルトブルーの海をひと目見て、なんと素晴らしい環境なのかと思いました」という感慨を山間部の学校から赴任してきた柿木先生は抱いた。宮崎で生まれ育った人にさえ、青の鮮やかさは心に響いたのである。
柿木先生が校長として赴任したのは日南市立鵜戸中学校(※2011年に鵜戸小学校が廃校となったことで、現在は小中一貫校の鵜戸小中学校として統合されている。2011年度の全校生徒は52名)。校舎から宮浦の海までは歩いてわずか。教室にいてさえ潮風が薫りそうなほどの近さにある。
「わたしは山間に育ちまして、子供の頃に遊んだ経験は多いのですが、それでも海に憧れはあったんです。いよいよ海の近くの学校へ赴任となった時、楽しみが募りましてね。実際に宮浦海岸を見た時などは、あまりの素晴らしさに惚れ込みました。しかし生徒らに聞けば、学校近くの海で遊ぶことはないと言う。遊泳禁止の場所だったんですね。ただ他地域から来たサーファーは海に入っている。地元の人が楽しまないのはなんとももったいない。そう思う一方、わたし自身がサーフィンに興味がありました。体育の教師でしたから身体を動かすことは好きですし、海で遊ぶといえば泳ぐか潜るか。ところがサーフィンは海の表面をサーフボードでスーっと移動していく。あれはいったいどういう感覚なのだろうと、その感覚を知る絶好のチャンスだと思ったのです」
屈託のない笑いを響かせて当時を振り返る柿木先生は、ちょっとした野心を斬新なアイデアへ変えていく。「言うなれば、自分の夢の実現に子供たちを巻き込んだとも取れますかね」と確信犯的に、サーフィンを授業に組み込んだのである。
今では他校で校長をつとめる柿木先生が発案者となったサーフィン授業は、総合学習の時間と体育の時間を充てることで2007年からスタート。6月と7月の夏場におこなわれ、小中一貫校となってからは小学校高学年の生徒も参加しはじめた。
斬新なアイデアは生徒たちの関心を呼び起こし、一方でサーフィンが教育になるのかという疑問の声も生んだ。そうした声に対しては、海の近くの学校がサーフィンを授業に取り入れることは、雪国の学校がスキーを取り入れるのと変わらないという思いがあった。加えて授業だから生徒の安全確保が何よりもの優先事項となる。事故は許されないと心に誓い、安全の確保とギアの提供は日南市サーフィン連盟に協力を仰いだ。
授業は生徒たちがみずから使用道具を用意することからはじまる。ウェットスーツに着替えてサーフボードを学校から海へと運び、準備運動をして海へと入る。パドリングをして沖へ出ては、うねりをキャッチして波に乗る。サーフに興じるのは先生たちも同じ。年齢や立場は関係なく、授業のたびにたくさんの笑顔が海のなかで弾けることになる。
2ヶ月間の授業を経て、最終日にはコンテストが催される。しかし他者と競うことを目的とはしない。向き合うのは自分自身。うねりからテイクオフをして、横へ滑り、最後にプルアウトをしたら満点の10点という具合に明確化された点数に対し、事前に申告した点数をクリアできるか否かにテーマを置く。
今年度のコンテストは7月16日に開催された。朝から続く凪のような海面にスタッフの心象は穏やかではなかったものの、潮が干くにつれて波が姿を見せはじめた。ヒザからモモ、モモからコシ、そしてセットでハラほどの波が割れ出すと開催がコールされた。コンテストに参加した生徒は18名。そこに2名の先生が加わり、計20名が4つのグループに分かれてのサーフとなった。
大人の目には小さなサイズに映るものの、生徒たちは一心不乱に波を追う。男の子も女の子も、強い陽射しや日焼けのことなど気にしない。ひたすらに波を追い、インサイドまで乗り継げば明るい表情でパドルバックをし、波に置いていかれてしまうと悔しそうに手で波面を叩いた。サーフィンのコンテストでは楽しさと悔しさが同居する。満足に波に乗れれば楽しいが、努力が報われないこともあるのだと、彼らは波間で知ることになる。
およそ3時間を快晴の海で過ごし、無事に閉会を終えた後で山元現校長先生は、非常に印象に強い言葉を残した。
「閉会式、生徒たちの表情は一様に凛々しかった。ただ海遊びをしていたという顔ではなく、掲げた目標と残った結果に向き合っていた顔でした。そんな生徒の眼差しを見られたわたしにとっても、今日という一日は、とてもいい日になりました」
7年前に柿木先生が思いを込めて蒔いた種は、教育という現場でしっかりと花を咲かせ、実となった。そしてその実の本当の味わいを、生徒たちは故郷を離れてから実感するのだろうと、山元先生は続けた。
「将来、生徒たちは進学や就職といった理由で宮浦を離れることもあるでしょう。東京へ出る子も少なくないと思います。しかし田舎の子というのは、田舎育ちというだけで自信を失いがちなのです。ですから将来、新しい土地でつくった友達や同僚と飲み明かす時、ぜひサーフィン授業のことを、ぜひ生まれ育った海のことを話してもらいたい。友達が見せる表情、発する言葉に接した時、生徒たちは自信を自分に抱けるのではないと、わたしは思うのです」
山元先生は、世界の中心は故郷なのだ、とも言った。故郷を軸に、東京へ、全国へ、海外へ、世界は広がっていくのだと。だから、故郷が善き処なら、どれほど世界が広がり続けても大きな拠り所となり、自分を見失うことはない。大人たちが自然豊かな宮浦でサーフィン授業に誠を尽くすのは、生徒たちの生まれ育った故郷が、彼らにとって善き処となるよう願ってのことなのである。
田舎だからこその誇りを、日南のオトナたちは美しい海とサーフィンに求める。子供たちは、当たり前の環境と思い過ごした幼い頃の時間が、実は全国的に希有であることを、オトナへと成長した後に知るのである。